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猿畠山 法性寺(えんばくさん ほっしょうじ)は、現在の神奈川県逗子市久木の地に建立された日蓮宗の寺院。松葉ヶ谷法難の際、日蓮が白猿に導かれ難を逃れた岩窟の地に建立されたと伝えられ、日蓮六老僧の一人である日朗の墓所がある。14世紀に本圀寺とともに京都に移転、17世紀に旧地に同一の山名・次号で1寺が建立された。京都 法性寺は本圀寺の旧末寺500ケ寺のうち「末頭」の地位にある。達師法縁〔日蓮宗寺院大鏡, 京都一部, p.705〕。逗子 法性寺は池上本門寺(長栄山)、比企谷妙本寺(長興山)両山奥の院を称し、旧本山は、比企谷妙本寺。池上・土富店法縁。 ==歴史== 建長5年(1253年)、日蓮は安房国清澄寺より鎌倉入りし、松葉ヶ谷に草庵を構え布教活動を行っていたが、文応元年(1260年)、『立正安国論』を鎌倉幕府五代執権北条時頼へ献じたことをきっかけに、浄土教信者らにより夜間、草庵を襲撃・焼き討ちされた(松葉ヶ谷法難)。 この時、暴徒到着に先立ち、日蓮の前に白猿が現れ、その導きにより山中の岩窟に隠れて難を逃れたとされる。日蓮はこれを山王権現の加護であるとし、弟子たちに報恩を託した。 下って元応2年(1320年)、日蓮の高弟・日朗死去にあたり、遺言により、遺体は朗門の九鳳(九老僧)の一人である弟子の朗慶により松葉ヶ谷の安国論寺で荼毘に付され、かつて日蓮が逃れたと伝えられる岩窟がある御猿畠に葬られた。翌年の元亨元年(1321年)、朗慶によりこの地に建立されたのが法性寺である。 南北朝時代の貞和元年(1345年)には、本圀寺とともに京都に移転、寺領は比企谷妙本寺預かりとなった。 京都への移転は勅命によるもので〔日蓮宗寺院大鏡, 京都一部, p.705〕、当初は神光山の地に方四町の境内地を拝領、のち豊臣秀吉の命で京極の地に移転した。延宝3年、元禄4年の2回にわたり火災に会い、元禄6年に現在地へ移転した〔日蓮宗寺院大鏡, 京都一部, p.705〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「法性寺 (逗子市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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